「しのびよる破局のなかで」(※とりあえずメモ。)
2009-02-03(Tue) 07:34:59
先月末からなぜか指先が痺れ、偏頭痛がある。
もうこのカラダも、ン十年使い込んでいるので、
ボチボチ、ガタが来始めても不思議はないのだが、
何かヘンな病気だったらイヤだなぁ、という不安はある。
片耳の外耳が腫れているようなので、偏頭痛の原因は
たぶんそれだろうが、痺れの原因は何だろう。
でも、よっぽどヤバイことにならない限り、病院には行かないだろう。
私には守らねばならないものもないし、先のことを考えるのは面倒だ。
そんなこんなで仕事も捗らず、冴えない気分ではあったが、前からチェックしてあった
「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」(NHK ETV特集)を見る。
もうこのカラダも、ン十年使い込んでいるので、
ボチボチ、ガタが来始めても不思議はないのだが、
何かヘンな病気だったらイヤだなぁ、という不安はある。
片耳の外耳が腫れているようなので、偏頭痛の原因は
たぶんそれだろうが、痺れの原因は何だろう。
でも、よっぽどヤバイことにならない限り、病院には行かないだろう。
私には守らねばならないものもないし、先のことを考えるのは面倒だ。
そんなこんなで仕事も捗らず、冴えない気分ではあったが、前からチェックしてあった
「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」(NHK ETV特集)を見る。
何年か前、脳出血と癌を患ったことは知っている。
きちんと網羅してはいないけれど、
この人の書いたものを見かけると、ほぼ100%買う。
半身にまだ麻痺が残るという辺見が、
黒のキャップとダウンジャケットで、
やや足を引きずりながら、秋葉原の雑踏を歩く。
リハビリのために、近所のショッピングビルの階段を昇り降りする。
乾いているのに乾いていない骨太の言葉が、尽きず湧きだす。
表情に満ちた強い眼光。
初めて読んだのは10数年前の、「もの食う人びと」だった。
彼は世界各地で、そこで暮らす人々が口にするのと全く同じものを
(例えばチェルノブイリでは放射能に汚染された食品をも)次々と口にしていた。
「芥川賞作家の記者が胃袋で書いた異色ルポ。
「食」を通して世界の人びとの生の根源を探り新たな世界観を提示。」
「はっきりした旅程はない。これといった決心もない。
ただ一つだけ、私は自身に課した。
噛み、しゃぶる音をたぐり、もの食う風景に分け入って、
人びとと同じものを、できるだけいっしょに食べ、かつ飲むこと。
不安である。意義もわからない。愚かかもしれない。
でも、そうしてみたい。なぜだろう。
私は、私の舌と胃袋のありようが気にくわなくなったのだ。
長年の飽食に慣れ、わがまま放題で、忘れっぽく、気力に欠け、
万事に無感動気味の、だらりぶら下がった、舌と胃袋。
怖がって縮みあがるだけかもしれない。
しかし忘れかけている味を思い出させたいのだ。」
その頃からこの人が好きだった。この人の言葉は信じられる。
そして、64歳になったという辺見は、こう言っては不真面目だと思われるかもしれないが、
何だかものすごくすてきになっていた。むしろ以前見た、もう少し若い時の姿よりも。
番組では、
----
◎第一章 秋葉原事件を読みとく
◎第二章 しのびよるかつてない破局
◎第三章 奈落の底で人知は光るのか
◎終章 書かれていない物語を紡ぐ
----
と続くなかで、現代社会の病巣が、的確な言葉によって丹念に抉り出されていた。
資本が人間を使い捨てるなか、人間の価値観はいちじるしく損なわれ、
激しい痛みが爆発なひろがりを見せているというのに、
それはマスメディア等によって、きれいに塗り固められてしまっている。
人々は、他者の痛みを目の当たりにしても、何も感じなくなりつつあり、
絶望的な状況にも慣れてしまいつつある。(辺見はそれを「無意識のすさみ」と呼ぶ。)
そして、そんな「奈落」の中で、「人知」というものがどう光るのか、光らないのか、
それが明かされる時が、今来ている、と。
とりあえず今は、気になった言葉のうちから、幾つかを書き抜いておく。
---------------------------------------------------
まずは、辺見が紹介した、夢野久作の「れうきうた(猟奇歌)」。
象徴的な発想の必要性を説きながら辺見は、
1920-30年の世界恐慌の時代を背景としたこの詩と、
去年あった秋葉原の事件を重ね、驚くべき符合を語る。
「自分より優れた者が
皆死ねばいゝにと思ひ
鏡を見てゐる」
「殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く」
「白塗りのトラックが街をヒタ走る
何処までも何処までも
真赤になるまで」
---------------------------------------------------
次は要約。
老人となった自分にも、秋葉原の犯人の衝動がわからないでもない。
それは、パンデミック(感染爆発 ※社会の病巣が爆発的にひろがること)の時代を
生きざるを得ない人間の、
生体反応、けいれん、発作のようなものではないか?
つまり、今の社会が、生体(人間の体)に合っていないのではないか?
だから発作が起こるのだ。
しかし、マスメディアも、その現実を伝える意欲がない。
痛みをコーティングしている被膜を剥がしたら、その下はどうなっているのか?
---------------------------------------------------
次は、駅ビルの階段でリハビリを兼ねて5階まで往復し、
若干息があがっている辺見が語る言葉。
(このとき、しばしばこぼれていた笑顔と目の生気が、とても印象的だった。)
「歩かないと退歩して歩けなくなるけれど
いくら練習してもうまくならないという状態は好きなんだよ けっこう」
「わかる?」
「いくら練習しても上手にはならないけど 練習しないと歩けなくなる状態は
――なんとなく嫌いじゃないっていうか 運命論的に おもしろいっていうか
誰の責任でもなくて おれの状態としてね 深みがあるっていうかさ 思うよ」
「こういう つまり 肩で風切って格好良く歩くってことはもうできないわけね
それがなんかね 許せるようになった」
「わかる?それ」
---------------------------------------------------
そして、画面に表示された、
辺見の著書「たんば色の覚書 私たちの日常」からの引用。
「痛みとは、たとえ同一の集団で同時的にこうむったにせよ、
絶望的なほどに「私的」であり、すぐれて個性的なものだ。
つまり、痛みは他者との共有がほとんど不可能である。」
「しかし、それでもなお、私の痛さが遠い他者の痛さに
めげずに近づこうとするとき、
おそらく想像の射程だけが 異なった痛みに架橋していく
ただひとつのよすがなのである。
私たちの日常の襞に埋もれた
たくさんの死と、姿はるけし他者の痛みを、
私の痛みをきっかけにして 想像するのをやめないのは、
徒労のようでいて 少しも徒労ではありえない。
むしろ、それが徒労というものの
他にはない優れた特性であるべきである。」
最後に、末尾の言葉の要約。
階段の昇り降りの練習をもう何年もやっている。しかし、進歩がない。
「チェッ」と思うけれど、しかしそれによって、「徒労」というものがわかる。
「徒労」という窓口から世界を考えるのは、あながち悪いことではない。
「成果を期待するっていうのがないのはいいね。」
――そう語り終えた彼は、駅の階段を昇りきり、
やはり少し足を引きずりながら、街の、
きわめてありふれた通りの風景の中に出ていく…。
きちんと網羅してはいないけれど、
この人の書いたものを見かけると、ほぼ100%買う。
半身にまだ麻痺が残るという辺見が、
黒のキャップとダウンジャケットで、
やや足を引きずりながら、秋葉原の雑踏を歩く。
リハビリのために、近所のショッピングビルの階段を昇り降りする。
乾いているのに乾いていない骨太の言葉が、尽きず湧きだす。
表情に満ちた強い眼光。
初めて読んだのは10数年前の、「もの食う人びと」だった。
彼は世界各地で、そこで暮らす人々が口にするのと全く同じものを
(例えばチェルノブイリでは放射能に汚染された食品をも)次々と口にしていた。
「芥川賞作家の記者が胃袋で書いた異色ルポ。
「食」を通して世界の人びとの生の根源を探り新たな世界観を提示。」
(共同通信社出版案内・既刊書一覧より)
「はっきりした旅程はない。これといった決心もない。
ただ一つだけ、私は自身に課した。
噛み、しゃぶる音をたぐり、もの食う風景に分け入って、
人びとと同じものを、できるだけいっしょに食べ、かつ飲むこと。
不安である。意義もわからない。愚かかもしれない。
でも、そうしてみたい。なぜだろう。
私は、私の舌と胃袋のありようが気にくわなくなったのだ。
長年の飽食に慣れ、わがまま放題で、忘れっぽく、気力に欠け、
万事に無感動気味の、だらりぶら下がった、舌と胃袋。
怖がって縮みあがるだけかもしれない。
しかし忘れかけている味を思い出させたいのだ。」
(「もの食う人びと」より)
その頃からこの人が好きだった。この人の言葉は信じられる。
そして、64歳になったという辺見は、こう言っては不真面目だと思われるかもしれないが、
何だかものすごくすてきになっていた。むしろ以前見た、もう少し若い時の姿よりも。
番組では、
----
◎第一章 秋葉原事件を読みとく
◎第二章 しのびよるかつてない破局
◎第三章 奈落の底で人知は光るのか
◎終章 書かれていない物語を紡ぐ
----
と続くなかで、現代社会の病巣が、的確な言葉によって丹念に抉り出されていた。
資本が人間を使い捨てるなか、人間の価値観はいちじるしく損なわれ、
激しい痛みが爆発なひろがりを見せているというのに、
それはマスメディア等によって、きれいに塗り固められてしまっている。
人々は、他者の痛みを目の当たりにしても、何も感じなくなりつつあり、
絶望的な状況にも慣れてしまいつつある。(辺見はそれを「無意識のすさみ」と呼ぶ。)
そして、そんな「奈落」の中で、「人知」というものがどう光るのか、光らないのか、
それが明かされる時が、今来ている、と。
とりあえず今は、気になった言葉のうちから、幾つかを書き抜いておく。
---------------------------------------------------
まずは、辺見が紹介した、夢野久作の「れうきうた(猟奇歌)」。
象徴的な発想の必要性を説きながら辺見は、
1920-30年の世界恐慌の時代を背景としたこの詩と、
去年あった秋葉原の事件を重ね、驚くべき符合を語る。
「自分より優れた者が
皆死ねばいゝにと思ひ
鏡を見てゐる」
「殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く」
「白塗りのトラックが街をヒタ走る
何処までも何処までも
真赤になるまで」
(この詩は、辺見の「水の透視画法」中でも引用されているらしい。)
---------------------------------------------------
次は要約。
老人となった自分にも、秋葉原の犯人の衝動がわからないでもない。
それは、パンデミック(感染爆発 ※社会の病巣が爆発的にひろがること)の時代を
生きざるを得ない人間の、
生体反応、けいれん、発作のようなものではないか?
つまり、今の社会が、生体(人間の体)に合っていないのではないか?
だから発作が起こるのだ。
しかし、マスメディアも、その現実を伝える意欲がない。
痛みをコーティングしている被膜を剥がしたら、その下はどうなっているのか?
---------------------------------------------------
次は、駅ビルの階段でリハビリを兼ねて5階まで往復し、
若干息があがっている辺見が語る言葉。
(このとき、しばしばこぼれていた笑顔と目の生気が、とても印象的だった。)
「歩かないと退歩して歩けなくなるけれど
いくら練習してもうまくならないという状態は好きなんだよ けっこう」
「わかる?」
「いくら練習しても上手にはならないけど 練習しないと歩けなくなる状態は
――なんとなく嫌いじゃないっていうか 運命論的に おもしろいっていうか
誰の責任でもなくて おれの状態としてね 深みがあるっていうかさ 思うよ」
「こういう つまり 肩で風切って格好良く歩くってことはもうできないわけね
それがなんかね 許せるようになった」
「わかる?それ」
---------------------------------------------------
そして、画面に表示された、
辺見の著書「たんば色の覚書 私たちの日常」からの引用。
「痛みとは、たとえ同一の集団で同時的にこうむったにせよ、
絶望的なほどに「私的」であり、すぐれて個性的なものだ。
つまり、痛みは他者との共有がほとんど不可能である。」
「しかし、それでもなお、私の痛さが遠い他者の痛さに
めげずに近づこうとするとき、
おそらく想像の射程だけが 異なった痛みに架橋していく
ただひとつのよすがなのである。
私たちの日常の襞に埋もれた
たくさんの死と、姿はるけし他者の痛みを、
私の痛みをきっかけにして 想像するのをやめないのは、
徒労のようでいて 少しも徒労ではありえない。
むしろ、それが徒労というものの
他にはない優れた特性であるべきである。」
(「痛みについて――あとがきのかわりに」)
---------------------------------------------------最後に、末尾の言葉の要約。
階段の昇り降りの練習をもう何年もやっている。しかし、進歩がない。
「チェッ」と思うけれど、しかしそれによって、「徒労」というものがわかる。
「徒労」という窓口から世界を考えるのは、あながち悪いことではない。
「成果を期待するっていうのがないのはいいね。」
――そう語り終えた彼は、駅の階段を昇りきり、
やはり少し足を引きずりながら、街の、
きわめてありふれた通りの風景の中に出ていく…。
[追記] この映像、もしくはいろいろ振り返ってみて思う
キーワードのひとつは「架橋」。
自分の中の異なる部分部分の間に、確かな橋を架けること。
人と人との間、異質なグループ同士の間に、生き生きと風が吹き抜ける
橋を架けること。(生命線。)
キーワードのひとつは「架橋」。
自分の中の異なる部分部分の間に、確かな橋を架けること。
人と人との間、異質なグループ同士の間に、生き生きと風が吹き抜ける
橋を架けること。(生命線。)
![]() | もの食う人びと (角川文庫) (1997/06) 辺見 庸 |
![]() | たんば色の覚書 私たちの日常 (2007/10/31) 辺見 庸 |